見渡す限りの大海原。色は澄んだ水色、珊瑚礁の生息域近くに特有の淡い色彩だ。
日はまだ高くまで登り切っていないものの、赤道に近い分だけあって、かなり強い光を投げかけてきている。
「――これで全部、っと」
「ご苦労だったな、紅葉」
「真木ちゃんもね」
腕力には多少のおぼえがある二人だが、人数分のシーツを甲板に干す作業はなかなか大変だった。ランドリーは船倉のかなり下にあることだし。
気が付くと時刻は午前十時を少し回っている。
午後はシーツをとりこんで、かわりに毛布を外に出して干す作業になる。さすがにそれは各自で運んでもらうことになっているが、この分だと雨の心配はいら
ないようだ。
年末といえば大掃除。反社会的超能力者組織P.A.N.D.R.A.であっても例外ではなく、今日のように風が強くなくて、天気がよければ布団干しだっ
てする。明日も晴れるようならプールの水を抜いて甲板の掃除、雨なら船内の雑巾がけだ。
甲板から船の中へと戻ると子供達がまぎだ、もみじだと騒ぎながら飛びついてきた。
「お前達、自分の部屋の片づけはどうなった?毛布は外に出せるようにしたか?」
「終わったよ。だから二人をよびにいけっていわれて」
「お茶の時間なんだよ」
「あら、迎えに来てくれたのね?ありがとう」
サングラスごしの紅葉の笑顔に、子供達も得意そうに笑う。
と、そのうちの一人が真木と紅葉を指さして言った。
「二人とも、おそろいだ!」
紅葉はカジュアルなスポーツウェアをトップスはブルー、ボトムはブラックの全体的に重めのトーンで着こなして、真木はあいかわらずの黒スーツの下に、地
味めのYシャツとネクタイ姿、ジャケットはない。別におそろいという訳ではない。だが、甲板作業用の滑り止めのついた靴に、デザインは違うが二人とも外で
の作業服がわりに黒いエプロンをつけている。たしかにお揃いと見えなくはない。
「”新婚”みたい!」
「”アツアツ”だー!」
「え?」
いきなりはやしたてられて驚く真木。一方紅葉は。
「その発想はなかったわ」
……妙な感心をしているようだ。
発想の問題なのかと首をかしげたくなった真木に。
「きょうすけに言いにいくー!」
「みんなにバラしにいくー!」
と子供達が言い出したものだから。
「ええ!?」
制止の言葉をかける暇すらなかった。一同が結託して通路を駆けてゆく。
「ま、いいんじゃない?」
「えええ!?」
当事者なのに大雑把な紅葉の言葉に、真木は対応に困って途方に暮れた。
「新婚さんが来たー!!」
ミーティングルームははすでに子供達の持ち込んだ話題になっているようだ。
「たしかに、ペアルックっぽいかもね」
どこか古くささを拭えない台詞を発したのは兵部だ。一番奥まったいつもの席に陣取って、子供達の話を聞いている。
駆け回っている子供達と比べ、それより少し年上の一団はある程度固まってきちんと席についていたが、やっぱり視線は真木と紅葉に集まっていた。
「いや、単に二人で作業してたというだけで……」
「ふたりっきりだ!」
「ちゅーしてたんだよ!きっと!」
「ちゅーだ、ちゅー!」
「ええええ?」
真木の思惑をよそにどんどん話が転がっていく。兵部の目線が気になって仕方ない。
「そ、そんなことしてな…」
「ちゅーするの?」
「ちゅーしちゃえー!!」
ここにきてさすがの紅葉も他人事じゃなくなったらしく、上半身を軽く仰け反らせながら。
「待って、そういう訳じゃ……」
ない、という言葉を遮るように真木が叫んだ。
「お、俺は少佐のものですからっ!」
真木の、渾身の一声。
その言葉に、辺り一面、水を打ったように静かになる。
ジャスミンティーの湯気だけがまっすぐに上へ登ってゆく。
――やってしまった。どうしよう。頬どころか耳まで熱くなった真木の思考は、オーバーヒートして停止する。
「えっ、なぁに?お二人さんはそういうことなの〜?」
嬉しそうに声を上げたのはマッスルだ。両目には『同士発見』と描かれている。
「ふうん?」
兵部が真木を――厳密には真木と紅葉を見ると、真木はさらに慌てるしかない。
「い、いや、そうじゃない、そういう意味じゃないけど、違っ……やっぱり違わな……!!」
「……泥沼」
隣にいる紅葉にすらそんなコメントをされて。
「兵部少佐と真木さんはそういう関係なのかい?」
『……俺に聞かれても』
九具津がコレミツに明日の天気でも聞くような適当さで問うが、当然コレミツとて答えられるはずもなく。
「え?なに?なんか変なこと言った?」
きょろきょろと辺りを見回しながら言ったのは黒巻だが、その周辺に座るものたちの大体は同じ表情だ。なんのこと?と。
混乱に終止符を打ったのは兵部の一言だ。
「もちろん、真木は僕のものだよ?」
「えええええ!?!?」
今までの言い訳を吹き飛ばす発言に、真木が今日一番の驚愕で兵部を見ると。
「あたしも!あたしも少佐のものだもんっ!!」
肩に桃太郎を乗せた澪が手を挙げる。
「いやぁん、アタシも、全てを少佐に捧げてるわヨ!」
マッスルに続けて年少組から何からあたしも、自分も、と言い出して、兵部がそれに笑顔で答える。
「当然、みんな僕のものさ。だから良い子にしてちゃんと席にお座り。お茶が冷めちゃうよ?」
はーい、と仲良く「良い子」モードに入ると、もはや真木と紅葉を注視する者はなく。
葉がぽん、と真木の肩を叩く。
「真木さん、これが”普通の”反応だよ?」
葉に笑われ、もう一人の当事者のはずの紅葉はうつむいて、その肩を震わせていた。むろん、紅葉にも笑われているのだというのは、さしもの真木にも理解で
きた。
真木と紅葉が座ったところに、九具津の人形がカップに注がれたお茶を持ってきたので、真木と紅葉もそのままティータイムに入った。真っ赤だった真木もそ
うこうするうちに落ち着いてきて、今はもう別の話題に移っている。
それをやや遠巻きに見ながら。
「なんだったの、あれ」
わけがわからないとばかりに呟く黒巻にカズラが応えて。
「結局真木さんは兵部少佐が好きってことでしょ?」
「わかりきったことだよなー」
なにを今更とばかりに頷いたカガリのカップの残りも尽きかけてくる頃。
「ぷぷっ、ぷっ、ぷぷぷぷ」
何故かパティだけが、いつまでも笑っていた。
「で?”ちゅー”はしたの?ちゅーは」
「だから!何度言えば分かるんですか!!」
夕食の時に「話があるから僕の部屋に来て」と皆の前で呼び出されて、何のことかと赴いてみれば開口一番、今日の午前中の話題をむし返された。
「なんだったら|透視≪よ≫んでください。そうしたらはっきりするでしょう」
真木は冷静な声さえ保ってはいるものの、もはや涙目である。
「ええ〜、でもお前くらいの|超度≪レベル≫で心を閉ざされると面倒なんだよね」
できない、とは言わない。つまりするつもりがないのだ、最初から。
立ったまま落ち着かずに兵部の部屋をうろついていた真木だが、迷った末に兵部のデスクの椅子に座ると膝に両肘を突いて頭を伏せた。部屋の主はベッドの上
にうつぶせでひじを立て、そこに顎を乗せてニヤニヤと真木のほうを見ている。
「まったく、俺をどうしたいんですか。どうしたら気が済むんですか」
「んー、そうだなあ」
もとからベッドの枕の位置と正反対の、足の側に頭を置いていた兵部だが、半回転して仰向けになる。
「ちゅーしてくれたら、わかる」
――そういうことか。
つまりは、自分をダシにしてからかいたかっただけか。真木は全身の力が抜けていくような気分だった。
なんというか、ムキになった自分が馬鹿らしい。
それでも一応は真面目に聞き返す。
「じゃあ、それでもうこの話題は終わりですよ、いいですね?」
「えーー、どうしよっかなー」
「いいですね?」
このままでは埒があかない。強硬な姿勢を保とうとしたら、兵部からも強硬な意見が出される。
「じゃあ、何もかも忘れさせるようなキスをしてごらんよ」
頭の上下を反転させたまま上目遣いで見つめられて、真木の心臓が跳ねる。
「――はい」
拒絶する理由はなかった。
僅かな緊張を見破られないようにデスクチェアから立ち上がり、視線を兵部から離すことなくその距離を詰め寄る。
デスクから、ベッドへ。傍らに屈むと、目線だけを自分の方へと向けた兵部の顔が視界に映る。
黒より黒い色に仄く瞳が、自分に対して流れるような視線を送ってくるから。
学生服に包まれた躯の向かい側と、頭の上に両肘をつくと、ベッドが少しだけ沈む。
闇を閉じこめた瞳を、ゆっくりと長い睫が覆い、その瞼が完全に落ちる頃に真木は兵部の唇に口付けする。
キス一つで、何が証明できるだろう?
心を読む力のない真木にはわからないことだ。
だから彼に対しては心を閉ざしたりしない。
触れあった表面だけを啄んで、兵部の唇を舐める。薄い唇に赤みがさすようになる頃には、誘うようにその口が開くから、そのとき初めて兵部の中へ自分の舌
を滑り込ませる。
――通じればいい。どれだけ自分が想っているか。
冷たく濡れた口の中。どれだけ小憎らしい発言をしようと、いたずらばかりをしようと、愛おしくて。その人が侵入を許してくれた場所だから、大切に、丁寧
に、舌で唇で快楽を刻みつける。
そうして長い長いキスの後。
「…嬉しかった」
「え?」
キスの途中で、夢中になって真木にしがみついてきた兵部。真木はその手に逆らわずキスを続けていたが、今はベッドに片足を上げるようにして兵部と胸を重
ね合わせている。
「君が、僕のものだって言ってくれたから」
今日の話か。嬉しいもなにもない。
「俺があなたのものなのは、本当ですから」
「うん、……そうだね」
「ただ、その、皆の前で言ってしまったので……」
「構うもんか」
僕が嬉しかったんだから。兵部の心の声を聞けるものはこの場にはいない。
「ね、真木」
「なんです?」
「僕を君のものにして」
それが何を要求する言葉なのか。
はじめて言われた言葉じゃないから、真木にはわかっている。その言葉の最後に「今だけは」という単
語が隠れていることも。
けれど、拒否という選択肢はありえない。
いつだって、兵部の求め以上に大切なものなど、この世のどこにも存在しないのだ。
「……まだ時間が早いですよ。聞かれないようにできますか?」
それほどヤワな防音設備を使ってはいないが、万全とは言い難い。しかも兵部は快感に溺れると抑制がきかなくなる。あられもない声をあげている時に部屋の
近くを通られたりしたら、困るのは兵部のほうだ。
「君のほうこそ、先に舌を入れてきておいて今更じゃない?」
「ちょっと、あれはっ…!」
体を離しながら馬鹿正直に慌てる真木を見て、また兵部の口調がからかう時のそれになる。
「ま、君次第、かな」
兵部がそう言うものだから、真木の覚悟も自然と決まって、いつもの真顔に戻る。
「では」
真木はベッドの上の躯をきつく抱き直す。そして兵部の唇に自分の唇を寄せ、キスの1mm手前で囁いた。
「言い訳を考えておいてください」
<終>
|